自分には嘘をつかないようにしている。なるべく。と言ったときに。

自分には嘘をつかないようにしている、なるべく。と心に決めたのは30歳くらいだっただろうか。

これを若者に言ったことがあるけれど、おそらくその意味は伝わっていない。伝わり様がない。
恐らくそう言った事に気付かない年頃は、「把握している」嘘のことを想像したことだろう。違うのだ。

人は簡単に自分の正当性を保つための嘘をつく。嘘をつかなければやってられない局面が必ずある。

例えば困った人を助けることはあっても、誰にも気づかれにくいシチュエーションで誰にも気づかれない良い事みたいなのはあちこちに転がっているけれどやらないよね。何でなのかな?と自問自答してみたりとか。

例えば痴漢被害がある地域でなんとか痴漢に皆警戒してほしいと考えた時に、痴漢未遂をみずからがその地域で実行しまくると事が大きな問題化となり、自分の逮捕と世間的失墜と引き換えに地域の痴漢に対する防護意識が高まるけれども、それはやらないよ。じゃぁどのさじ加減、どの程度の犠牲をはらうまでなら許せるかな?とか。

気になる女の子に良い所を見せるために仲間を使って因縁をつけさせ、それを助けに行くという漫画にありそうな茶番を演じて成功した時に、それは彼女に対する詐称行為に他ならず、もっと素敵な異性と巡り合ったかもしれないのにあなたと結ばれてしまったこの代償は、心改めた時にどうしたら償えるのだろうか、とか。

例えば食育系なんかでいえば、猫は愛でるのに豚は食べるのは何故なのか、とか。

カラーヒヨコが可哀そうだと世間的にそういう風潮が盛り上がった時に、カラーヒヨコは世の中からいなくなったけれども代わりに生まれてすぐにミンチになるようになっただけだとか。

在来種のお魚さんを守ろうとしている傍らで、そこらへんのスーパーや食事処に在庫が欠けていると悪い評価をしてしまうとか。(何でも手に入るという事の裏には過剰な供給と破棄される命が不可欠)

募金するのは良いけれど、その金額をとある国の食糧にまわしたら数百倍、数万倍の人命を救う効果が出る、にもかかわらず募金の相手はそこなのは何故なのか、とか。

例に挙げたのはまぁ世間の大雑把な例だけれども、事、個人。自分自身に目を向けても、善行や普通と思ってきた事柄が実は自分都合で傲慢な、または視野の狭い、見ようともしない逃避、などの理由からなるものだったという事柄は大変多い。

少なくとも、その下衆な理由は、想像の域が広がる限り把握しておこう。と思うのです。

しかしこういったものの考えにもちゃんと副作用があるもので、世間とのいわゆる常識ってやつからはずいぶん乖離していくもんなんです。


時に何気に発した言葉で相手を大きく傷つけたり、理解されずに変人扱いされたりとか。


ん、飽きたからとりあえずここら辺まで。